Cross the Border

 REALTOKYOという、都内のアートシーンを紹介するwebサイトを見ていたら、おもしろい記事を見つけた。

 このサイトの編集長、小崎哲哉さんのコラムなのだけど、おとといこのブログでも取り上げた国際交流年とアーティスト・イン・レジデンスにも触れていて、いつにもまして読み込む。もっとも小崎さんのコラムでは、オーストラリアではなくドイツ年の方をメインであつかっているのだけれど、国際交流とそれが生み出すものについておもしろい視点で書かれている。

東京を始め、先進国の大都市では各国料理を楽しむことができ、しかもそれがローカルフードに影響を与えてなかなか美味しいフュージョン系料理が生まれることがある。それに似ている。もちろん、ステレオタイプの料理やインチキなニセモノがはびこる場合もあるが、基本的には誰にも迷惑がかからない楽しい現象だ。文化芸術活動の場合、地元に根づいた料理店とは違って本国から「来る」ケースが多いので、一過性の恨みがある半面、インチキ度はほとんどないのがまたうれしい。

さらに、アーティストインレジデンスのように「侵略先」に滞在して何かをつくる場合や、国を超えたコラボレーションが行われる場合などでは、その土地の歴史や風土や人に影響され、作品が変わることがある。ローカルフードの側ではなく、ビジターである料理人のほうが、訪れた土地によってつくる料理を変えるのだ。2国の料理人が腕を競い合うような場合では、国の違いを超えて不思議な共通点と相違点が生じることも大いにありうる。

 日本で長いあいだ修行したイタリア料理のプロが、実際にイタリアで学ぶとそれまでとは違ったイタリア料理観を身につけたりする。それは学んだ土地のトラディショナルなものではなく、かといって日本的なものでもない、あたらしいなにか。
 ペルージャにいたとき、日本人のイタリア料理のプロと何人か知り合ったのだけれど、彼らの滞在当初と帰国前の料理にはちょっとした変化が必ずあって、彼らの料理を食べるイタリア人にも、日本人にも、その変化はプラスの方向に働いていた。ようするに、おいしくなった。
 多くの人が国籍を問わずに「おいしい」と思う。そのおいしさは人々にとってひとつの真実じゃないかと思う。日本だけで作っていたときの料理は、イタリア的ではない。イタリアだけで作っていたものはその逆。どちらか一方にとってはもう片方は「おいしい」とは思えない。真実じゃない。


 ちょっと無理があるかもしれないけれど、よく「真の芸術」と言う言葉を耳にしたりするアートの世界でも、きっと同じことがいえるのではないか。価値観を越えて共有できる美。そしてそれは自分の所属する価値観の境界を乗り越えて、その先で生活することで身につけることができる、生み出すことのできる感覚。


 そしてそれは料理やアートだけではなくて、哲学にしろ政治にしろ経済にしろ言えること。なにかの真実、共有の感覚を手に入れるためには、ボーダーラインのなかで試すのではなく、まずボーダーを越えてみなくては真実には近づけない。


 やってみれば簡単なことなのに、なかなかみんな踏み越えない。だから価値観の衝突が起こる。言論の自由と宗教で対立する今のヨーロッパのように。おたがいが、おたがいの地域のことをもっと肌の感覚で知っていれば、起きない問題なんじゃないかと、素人ながら思ったりしてみた。