フィクション、ノンフィクション。


 仕事帰りに隣町のカフェによって、村上春樹の「東京奇譚集」を読み終えた。現実とフィクションの境界線にいつのまにかに落ち込んでいる自分にはっとさせられるつくりは春樹の得意とするところだけれど、長編よりも短編の方が、異界へ陥っている自分に気がつくときの驚きが濃密だと思う。

 日常から続くありえない世界と、ありえない登場人物たち。でも妙な説得力を持って彼らは雄弁に世界を語り、かえって身近な日常に生きる人たちの方がその現実感を失って異様に見えるのは、現実のゆがみを引き出す春樹の意図なのだろうか。
 時として虚構が、現実よりもリアルに世界と人を語る。この事実は私を打ちのめす。
 私がこれから学んでいこうとしている考古学には色々な定義があるけれど、つまるところ「過去の人間が作り出した物質文化から、その人間の精神文化を再生すること」だと思う。でも私が口にしたこのコーヒーカップから、いったいどれだけの「私」を再生できるのだろう。
 現代の心理学ですら、今を生きる人の精神を明らかにしきれない。古代ギリシアから現代に至るまで、哲学は人の存在について考え続けてきたけれどその答えはない。
 モノから考える考古学が、人を理解することはできるのか。古代の人がもし「短編小説」を書いていたとしても、それをどうやってモノから再現できるのか。縄文土器から、名前を盗む猿の話をどうやって見つけることができるのだろう。
 それなら考古学は必要ないのか。考古学は人の心の現実をダイレクトに導き出しはしないけれど、たくさんの材料を示すことで「今の人」に「過去の人」の存在を伝えることができる。相手を想像することは、相手を思うことにつながって、他者と自分の同一化につながる。思いやれる。
少なくとも私は、古代のローマの戦争を学んで、今の中東の哀しさを前より身近に考える。それ自体ではけして人の内面に近寄れないでも、想像することができる。
 いわば生きていくためのツールとして、考古学は意味のあることだと思うし、ひとつの生き方として選んでいきたい。

東京奇譚集

東京奇譚集