わたしがイタリアに行く理由。


 先日の”珈琲と小川と本と。”のエントリーを読んだ友だちから、「あなたにとってイタリアってなに?」と聞かれた。「それは私の中でのイタリアと言う国の持つイメージってこと?それとも私の人生でのイタリアが持つ意味?」と聞き返したら、「できればどちらも聞いてみたい」とのコト。さて、困った。
 この友だちはフランスと切っても切れない関係で、彼の国をとても愛している。きっと彼女は、私も同じような愛をイタリアに注いでいると信じているのだろう。私もそうでありたいと願い続けている。けれども現実というのはえてして厳しいもので、私はイタリアを、彼女のように「愛している」ということはできない。ではなぜ20歳を過ぎた頃から1年に1度、最低1ヵ月は旅したり、この1年にいたっては10ヵ月も住んでいたのか。
 私にとってイタリアとは、たとえていうのなら幾度となく二人きりで食事をして、お酒を飲んで、時には泊りがけで旅行をし、恋や仕事や家族関係を何のてらいもなく話せ、同じベッドで寝るくせに(おたがい多少期待はあるくせに)一線は越えない異性。こう書くと少しロマンチックだけれども、一言で言えば「くされ縁」である。

 最近よく雑誌などで、”Cantare, Mangiare, Amore! ITALIA!”というコピーを見る。これは「イタリアを歌い、味わい、愛す!」とでも訳せるのだけれど、日本で紹介されるイタリアの魅力の基本はこの3 つだ。オペラに代表される音楽、パスタに代表される食、そして愛を演出する風景。さらにこの3つに「デザイン」が加われば完璧だ。実際語学学校に行って同じ日本人同士で自己紹介すると、9割9分はこのどれかが渡伊の理由だったりする。
 ところが私はこのどれにも当てはまらない。オペラはプライベートで聴いたことがない。昔ピアノを習っていたけれど、ピアノソナタはドイツのものが一番だと思う。iPodに入っているのはブラジリアンミュージックとR&Bがほとんど。
 パスタは好きだけれど、ほんとは1ヵ月に1度食べたくなればいいほうだ。チーズも食べない。ワインは体質に合わないのかすぐ悪酔いしてしまう。そのかわりビールと日本酒と焼酎はざる。
 アッシジの丘の頂から見る風景はいつ行っても感動するけれど、北イタリアの湖畔地方よりは箱根芦ノ湖周辺の紅葉の景色の方が好き。
 デザインに秀逸なものが多いのは確かだけれど、実際に使う日常品は機能性で選ぶのであまり問題にならない。服飾に関して言えば、東京に住まなくなってからすっかりユニクロ派なのでモードのモの字も関係ない。
 絵画や建築といった美術は?ルネサンス絵画はすばらしいけど、スペインに行ったときにエル・グレコに抱いた感動の方が強かったかもしれない。建築は現代建築が好きなので、さまざまな景観規制が強いがために内装に重点を置いたイタリア建築よりもコルビジュエを輩出したフランスの方が興味があったり。

 ではなぜイタリアに行くのか。
 ひとつに、エトルリアに興味があるから。古代ローマ人以前にイタリア半島を席巻したエトルリア人。彼らは墓に埋葬する棺に、故人の生前の姿を模した陶製の蓋をつけた。その中の一つ、現在ローマのヴィラ・ジュリア博物館に陳列されている紀元前6世紀の夫婦像を見た瞬間、その魅力にとらわれて立ちすくんでしまった。その魔法はまだ解けていない。
 そしてもうひとつは、生のイタリア人との交流。ローマで1ヵ月お世話になったクララおばあさんの昔話と、北イタリアへの(イタリア人対象の)スキー旅行で一緒になった同じツアーに参加した人たちとの晩餐の会話は、忘れることのできないあたたかさを私のなかに残している。
 またあんな時間を過ごしたい。どんな歴史がああいったあたたかさを生んだのか、知りたい。その思いがイタリア行きのチケットを買わせる。転んで骨折し、スリに会い、会計をごまかされても私がイタリアに行くのは、あの国に住むやさしい人々と出会うため、と言えるのかもしれない。